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60年前の終戦が東南アジアになにをもたらしたか

 日本の敗戦は東南アジア諸国にとっても大きな衝撃ではありましたが、「決して直ちに明るい未来の雰囲気によってひきつがれたのではなかった」 という事実も考えなければいけません。日本の終戦と東南アジアの終戦とは意味合いが根本的に違います。日本の敗戦後は東南アジアはアメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの連合国進駐軍の駐屯地となり、さらにはそれらの連合国側は旧来の政治的、経済的支配下に置こうとしました。19世紀から頻繁に行われた植民地時代のものですね。
 フィリピンの場合、大規模な日本軍との戦闘は1945年8月14日以前にほとんど終結していました。9月2日の無条件降伏まで各地で日本軍は抵抗を続けていましたが、「8月25日、マッカーサーはフィリピンにおける戦争の終結と戦前コモンウェルスの原状回復」 を発表。その後、日本との関係が終焉し、終戦、さらには復興が行われるかのように思われました。
 しかし、国内においてオスメニア大統領が戦時中の日本協力者の弾圧を行い始め、元協力者たちは次第に一つの派閥を形成しだし、オスメニア大統領の追放を画策し始めます。内政不安です。さらには農民と地主との対立も目立ちだし始めました。それに加えアメリカなどの外国の介入などもうけています。結局フィリピンが一応の独立を見るのは1946年になってからである。しかしこれもあくまで一応のもの。内政不安や旧来の列強諸国の発言権などは完全に消え去ったわけではありませんでした。
 ベトナムでも日本の敗戦はそこまで重視されたものではありませんでした。特に1945年は深刻な米不足でした。直接的には44年の天候不順によるものでしたが、ほかにもフランスの米の強制買い付け、軍事用品の生産が奨励されていたぶん、食糧生産が減少したということ、アメリカ軍の空爆により米が余っている南部からの米の輸送が困難になったことが原因としてあげられます。この飢饉の餓死者は200万ともいわれていて、ベトナムにとっては今世紀最悪の出来事の一つでもありました。
 この時期には特に日本との大規模な戦闘があったというわけではありませんが、すでに冷戦体制が構築されていく過程でベトナムは様々な選択を余儀なくされています。8月13日から15日にかけてベトナム北部のチャンタオで共産党の全国会議が急遽開かれ、16、17日には国民大会が開催さました。これは「ベトナム民主共和国臨時政府の機能を果たすベトナム民族解放委員会を選出するための会議」 で、ホー・チ・ミンを主席とする民族解放委員会が選出されました。
 そして9月2日、新しい首都となったハノイからホー・チ・ミンがベトナムの独立宣言を行ったのです。しかし、この独立を戦前の宗主国フランスが許すわけはありませんでした。さらに北ベトナム地域とラオスは中国共産党が進駐しており、イギリス軍も介入してきていました。情勢は至極緊張した状態にあったということが推移できます。ベトナム軍のゲリラ戦もむなしく、45年末には次第に連合国軍に圧倒され中部山岳地帯へと追い込まれていきました。これらの流れが1960年代のベトナム戦争へとつながっていきます。
 このように、東南アジア諸国において1945年の日本の降伏はさらなる悲劇を巻き起こしました。これらの国々が独立を果たすにはもう数年の歳月を要しています。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

2006-02-14 : 歴史研究 ~北東アジアの追及~ : コメント : 0 : トラックバック : 0
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